変化の風−職業倫理に想う−
大川泰
(大川泰カイロプラクティックセンター院長・ナショナルカイロ大学卒D.C.)
ナショナル大でのインターン時代、ぼくは何故か年輩の患者に人気があった。そんな患者さんたちの大部分はレギュラー(お得意さん)と呼ばれる人たちで、特にどこが痛いというわけでなくとも、隔週もしくは月1回ぐらいで、とにかく来院する。
「どんな具合いですか?」と、ぼく。
「いえ、別にどうということもありません。ただ背骨が真っすぐになっているかと思って」
「ふむふむ、別に問題はないですよ」
「そうですか。じゃわたしの神経はピンチされて(押しつぶされて)いませんね」
「もちろんです」
「ああよかった。これでまたしばらく健康で暮せます」
「そうですね。微調整はやっておきますから、そこにうつ伏せに寝てくださいね」
「はいはい、ドクター」
というこの患者さんは、場合によるとぼくが生まれる前からのカイロプラクティックファンなのであるかもしれない。
このころ、ウィリアム・エステブという評論家の『私の報告』という本が、ぼくのインターンラウンジでベストセラーになっていた。今日のカイロプラクティック業かくあるべし、カイロプラクターたちよ未来へ向けて頑張れ、というトーンのもので、当時多くの業界人の支持を集めつつある本だった。同書に以下のようにある。
「患者の多くが教養が低く、ドクターの言うことだからと何でも従順に開いた時代は、たしかにかつて存在した。そんな時代においてはカイロプラクティックは平易な言い回しによって説明されなくてはならなかった。ところが時代は変わった。いまや人口の25パーセントが大学教育を受けていて、権威を疑うすべを知っており、セカンドオピニオンを求める風潮はますます強くなってきている。古き良き、背骨がズレて神経が圧迫されて病気になって、というモデルはもはや通用しない」
さらに以下は、ぼくが出た学校の学長のコメント。
「我々が過去において言ってきたようなことを言ってこなかったとしたら、カイロプラクティックは今日のカイロプラクティックにまでなることはできなかったであろう。しかしながら、これを今後も言い続けるとしたら、カイロプラクティック業は存続することはできないであろう」
ぼくの指導教授は“泣くインターンも黙る”ガチンコカイロプラクターで、L4とL5の関節面症候の区別ができないと怒るような人だったが、ぼくが上のような調子で高齢の患者さんに接するのをどうこういうことはなかった。
インターンとは指導教授の繰り出すパンチを蝶のように舞ってかわすのが仕事だから、これはとりあえずぼくにとってはめでたしめでたしなのだが、そんなことは、1人の臨床家としていかに職業倫理を保持するかということとは、やっぱり次元の違う話だ。
米国の医師は、ほぼ100パーセント、患者に癌を告知する。職業上知り得たことを、お金を払っているお客さんである患者に、つつみかくさず報告する、という意味では、このことは医師としての職業倫理に実にかなっているもののように見える。が、米国は訴訟の国、わがままな患者が多いから、変にかくし事をするとすぐに訴えられてしまう。というのも、医師はおおむね高額所得者であるうえに応訴・示談のために高額の保険をかけているから恰好のターゲットなのだ。だから彼らは必ずしも倫理で癌告知を行っているわけではない。それは自衛手段に近いといえる。
では、翻って、どんなに見込みのない患者にも希望をもたせ続けるのが医療人としての職業倫理なのか。胃癌を胃潰瘍と偽って(まぎれもなくこれは偽りである)伝えることが職業倫理といえるのか。
難しい問題だ。