彷徨する「哲学」

−カイロプラクティック哲学の問題について−

 先日、とあるカイロプラクティック関係のセミナーで話をした。このセミナーでは聴講生からアンケートをとり、次回以降のセミナー運営上の参考とするという非常に見識のあるシステムがとられている。
 演者である筆者も、その無記名のアンケートは拝見させていただいた。声が大きくて聞き取りやすかった、という感じのおほめの言葉は、筆者の場合どこで話をしてもたいてい言われることで、果たして『良かった点』という欄の半分ほどはこれを含んでいた。まあこれはどうでもよい。
 目を引いたのは同一のセミナーを受講した直後に書かれたとも思えない、二つの相反するコメントであった。あるアンケート用紙にいわく「もっと哲学の話をしてほしかった」、また別の用紙にいわく「科学的なことはあくまで科学的に追求してほしい。人からカルト集団と思われないように」というわけである。
 前者のコメントは明らかに筆者が哲学的な話をあまりしなかったということで、それを不満としている。後者は、筆者がセミナー中に多少触れた哲学的な話について、そんなものには触れなくてもよかったじゃないか、といっているようにみえる。
 で、筆者は実際にはどんな話をしたのかといえば、おおむね生理学やら神経学やらを当日のテーマであったある治療テクニックの理論的土台として紹介していた。その過程でいわゆるカイロプラクティック哲学的なものにも少し触れた。どういうふうに触れたかというと、それを弁護するというよりはむしろ「ほら、これだけ生理学と神経学で話ができるじゃないか。どうして哲学が必要なの」というトーンであったと思う。
 最初のアンケートのコメントは、それよりもっと踏み込んでカイロプラクティック業における哲学の地位を確認して欲しかった方のものであろうし、二つ目のそれは、筆者が哲学などというものに言及しただけで、いったいどうしてそこでそんなことに触れなくちゃならないのよ、と感じた方のものだろう。
 聴講生の方々の要望を反映して、より質の高いセミナーを提供していくことの大切さについては論を待たない。が、迎合してはいかん、のだなと、このアンケートをながめながらしみじみと思ったことであった。どだい、上の二つは両立の不可能な御要望である。
 カイロプラクティック業における哲学なるものの問題は、社会学的にみて、他業種に類をみない面白さを秘めるものであると筆者は常々思っている。やがて稿を改めて筆者なりの分析を開陳したく思うが、とりあえず、このコーナーの趣旨に沿って、米国でのこの方面における新しい波について紹介したい。
 ナショナルカイロプラクティック大は1992年に、業界に先駆けて、カイロプラクティック哲学のみについて考証する季刊誌を創刊した。『Philosophical Constructs for the Chiropractic Profession(カイロプラクティック業における哲学的構造)』というのがそれで、いわゆる学術誌ではないが、毎回さまざまな分野の専門家がこの問題についてさまざまな論評を行っている。
 もちろんそれらの論文のすべてをここで紹介するわけにはいかない。が、その創刊号に載った、元パーマー大学長のマクアンドリュースの一文を今回と次回に分けて思い切って全文、筆者の訳で紹介しよう。この季刊誌のトーンを最も端的に伝える文章であり、かつ平易な言葉で語られているので読みやすい。
 この問題に興味のある方は、ぜひ味わっていただきたい。それではのちほどお会いしましょう。


 (Philosophical Constructs for the Chiropractic Profession, volume 1,number 1より)
 なんという皮肉な結果であろうか。カイロプラクティック業界において哲学の問題を初めて真剣に扱った刊行物が、ナショナルカイロプラクティック大学から発行されることになるとは。しかしいったい何故このような事態に? 哲学とは、我々の職業の歴史を通じて、まさにそれを職業たらしめる要素の一つではなかったのか? むしろ礎(いしずえ)でさえなかったか? 「哲学」という言葉はカイロプラクティックを規制する州法の多くの中にすら(哲学を法規制下におくことはできず、その哲学の発露たる治療行為のみが規制の対象である。にもかかわらず)見い出せるではないか? また、この哲学の問題は、我々の存在意義が問われるたびにすでにさんざん議論されてきたのではなかったか?
 哲学という言葉の用法などは、カイロプラクティック界ではすでに疑いを差しはさむ余地のないほど確固としたものであり、1991年にもなって出される刊行物など、本来なら付け足しのようなものであるべきではないのか?
 上のような疑問について考える時、答えがあるとすればそれは「否」であると我々は直感的に知っている。哲学という言葉の意味は、私見であるが、業界内で十分理解されているとは決していえない。時に不適切な文脈に巻き込まれ、時に適当でない意味を付与され、また時には哲学などとは何の関係もない話(カイロプラクティックがどれだけ効いたという類の話)の中に引っ張り出され、この言葉の意味は完全にねじ曲げられてきてしまったので、今やそれをその起源まで辿る作業はほとんど意味のないものにすらなってしまっている。
 私個人、この仕事に携わるようになってのち、哲学という言葉の誤用のされ具合いを身近に感じるのには日数を要さなかった。1962年に(当時私は29歳で、業界に入ってまだ10か月だった)カイロプラクティック関係者の大きな集まりで「哲学」について話す機会をもったことがある。そこで私は「哲学的」(生気論的)な見解と、実在的(機械論的)なそれとの融和を試みたのだった。前者が「イネイト・インテリジェンス」と呼ぶものについて、後者はより正しい理解――つまり「恒常性を生起するところの、中枢および自律神経系を介して機能するメカニズム(最も広く支持されている人体生理学上の原理(学説)である)」――をしているのではないかと私は指摘した。聴衆の何人かは笑い、何人かは腹を立ててしまった。
 それから数年後、私はある保守寄りの団体が主催した研究集合でD.C.たちに講演をした。会の終盤、私はその70名ほどの参加者からの質問を募り、話題が研究活動およびデータの集積の問題に及んだ。質問がとぶ。いわく「一体どうしてそんな大金を研究のためなぞに無駄に使わなくてはならないのか。我々はみな、カイロプラクティックが効くのを知っているではないか。より多くの人々に我々の哲学を理解させれば、それでいいのではないか?」
 私は、連邦議会で証言した(当時の私のキャリアの段階での)数度の経験を引いてこれに答えた。上院・下院議員たちの言ってくれることといったら、要するに、「私の妻の(または妹の、等々)命はカイロプラクターに救われた」、あるいは「私の甥はカイロプラクターに診てもらうまでは歩けなかった」などという、我々の職業とそのアメリカにおける健康への貢献に賞賛を惜しまないものではあったのだが、それらのコメントの後には、必ず表現こそ違え同様の要請が投げかけられるのだった。「カイロプラクティックを支持するデータをお持ちなら、いかなるものでも構いませんから提出していただきたい。我々はあなたたちを助け、あなたたちの職業に対する攻撃をも打破したく思っています。我々はあなたたちの職業を連邦医療制度の枠に取り込みたいと考えているのですよ」
 もちろん、データなどありはしなかった。種々の理由から我々は歴史的に、学会で認められるような科学的情報の蓄積を怠ってきた。医師会による弾圧、公共医療機関の医師による支配、健康保険産業の医師による支配、そして我々の業界内の「哲人」たちの科学嫌い、これらがあいまって我々は科学の面で事実上の不毛状態におかれてきた。


 カイロプラクティックを支持する実のあるデータは70年代初頭になってぽつぽつ見られ始め、それらは明晰な判断力を持ったカイロプラクターたちと、同時にカイロプラクターの批判者たちとの注目するところとなった。
 Dr. L. K. グリフィン(Griffin)は、カイロプラクティックが通りいっペんの進歩をすら遂げなかった原因として、我々の使用する用語の混乱が挙げられると述べた。すなわち、D.D.パーマー(Palmer)のScience, Art and Philosophy of Chiropractic と B.J.パーマー(Palmer)のPhilosophy, Science and Art of Chiropractic などである。これとは別個にDr.ジョセフ・ドナヒュー(Joseph Donahue)は、その論文『Philosophy of Chiropractic:Lessons from the Past−Guidance for the Future』で同様の議論を展開した。
 我々の自業自得のまひ状態とでもいうべきものの正体は、これら二つの学究的成果によって明らかにされたと私は感じている。我々のうちのある部分は「サブラクセーション」について神経学的要素を含む(単なる構造的、機械的なものではない)ものとして語り、またある部分は Dorland's Medical Dictionary に定義されている通りの(神経学的要素のない)意味でこの言葉を使う。かくして混乱が君臨することとなる。我が国の先端をゆくカイロプラクティック大学の教員の間でさえ、このような基本的な前提について同意がなされていないか、また、ある者はサブラクセーションとは何であるか理解できないと主張する状態である。この状況下、我々は業界として、自らの業を寄って立たしめる前提概念、仮説、理論、原理などというものについて、如何にして確固たる見識を持ち得るというのだろうか。いわんや、一般大衆をや、である。
 スコット・ハルデマン(Scott Haldeman)(D.C.,Ph.D.,M.D.)は『Philosophy and the Future of Chiropractic』という論文を「・・・・科学的無知や低質な治療行為を、哲学の名のもとに正当化しようとするがごときは到底容認できるものではない」と断言して結んだのだが、この論文は、カイロプラクティックが歴史的に「哲学」に依存――私にいわせれば誤った依存。この依存が初期の科学的努力の放棄につながり、また、職業的発展のための適切な手続きについて無知を決め込む言い訳になった――してきたことについての、その一応の弁護において私の興味を引くのだ。


 これらの混乱の大本(おおもと)が、この「哲学」という言葉である。哲学には明らかに確立した定義があるのであって、例を挙げれば、知的手段による知識の追求、現実の裏に潜む原因と法則の研究、論理的根拠に基づいた事物の本質の探究、本源的な信条を整理概念化する上での批判と分析、自然現象の研究とその論理の体系化および実験などである。
 「哲学」には、確かに「人がそれによって生きるところの価値体系」というような意味もある。が、この定義は科学的なそれではまったくないし、科学としてのカイロプラクティックとは何らの関連も持たない。これに対して、上に掲げたような定義は、我々の職業の指向するものと明らかな関連性を有するのである。
 ある時私は、ある保守寄りの団体がカイロプラクティックを「守って」きたという点についてどう思うか、意見を求められたことがある。それは違う、というのが私の答えである。その団体は、我々の職業における科学性と治療技術から手を切って久しいのであり、彼ら自らは哲学と呼ぶところの装束を、中空を漂う霧のごとく自分らの周りにたち昇らせてきた。霧であるからには、これはいつか強い風が一吹きすればたちどころにかき消されてしまわなくてはならない。大部分のカイロプラクティックの「哲人」たちは、その考えを文書化することを嫌うので――何故なら、彼らのやっていることは知的な疑問にさらされたが最後、とうてい生き延びることのかなわないものだから――彼らを霧以上の存在と認めることは難しいといわざるを得ない。
 これら「哲人」たちの主張を裏づけるデータあるいは出典はどこにあるというのだろう? 一介の学部学生ですら何かを主張しようと思えば脚注に出典を記さなくてはならない。その題材が歴史や文学の場合ですらそうなのである。我々は一つの職業としてまとまらなくてはならないのであるが、漠然としていて根拠のない「哲学的」な堂々巡りがこの必要性を害し続けるのを許すとすれば、それは何故(なにゆえ)であろう? カイロプラクティックの理論を体系化するため? あるいは、その仮説の正しさを(中立的な学術誌にごまんと押し寄せる批評、批判を論破して)立証するためとでもいうのであろうか?