彷徨する「哲学」
−カイロプラクティック哲学の問題について−(続編)
1960年代の中盤から後半と70年代前半に、私はモーションパルペーションのセミナーを開いていたことがあるのだが、必ずこんなコメントでセミナーを始めたものだった。「カイロプラクティックの世界で、皆さんのような方々が私のような者の言うことを信じなくなる日。私はその日を待ちこがれているのです」。「信教」のごとき「信念」、これが我々自らのうちから消えてなくならない限り、この業界で成功するのは、大きな声の、上等な服を着た、4色刷りのパンフレットを持って、収入を何倍にでもしてみせるというテクニックを教える、こんな誰かさんであり続けるのだ。しかし、我々に教養というものがある(もしくは、訓練がいきとどいている)のならば、言葉を換えていえば「ちょっと待ってくれよ。誰が研究したっていうんだね、あなたの言っているそれは? どこの本に載ってるんだい、その研究は? そういったケースは物療で処置すべきである(あるいはすべきでない)というのは、誰が言ったんだね? それを立証する研究では対照実験として何人の患者が使われているんだね? ちょうど今、自分のクリニックで−業務内容を科学的方向にもっていくようアドバイスを受けたものだから−そういう研究を行なっているところだが、どうやらあなたのいうその研究とは違う結果が出そうな様子だから、完了次第、発表するとしよう」と言えるのであれば、その時こそ我々が真の発展の途につく時であろう。
が、「哲学」を構成する誤った概念が我々の職業内の大部分を支配し続ける限り、あるテクニックの適用が他のそれと完全に矛盾するにもかかわらずモルティプル・アジャストメントなどというものが教えられるような事態が続くだろう。こんな馬鹿げたことがある人々にとっては可能であるというのも、「哲学」というものが伝統的に非常に柔軟に使われてきたからである。
これによりさえすれば、スナップ音の発生を目的として治療を行うことも、「力を与えてやり、あとは患者の体が自らアジャストするに任せる」ことも、代用物に頼ることも、ジャガイモと磁石を体の上に置いてみることも、精神的に患者と通じることも、「患者と共振状態に入る」ことも、すべてできてしまう。これらの説はその正当性を立証する証拠を欠いており、その説の仕出し屋たちは、自分と同じような考えの者だけが参加してくるセミナーに自らも参加することによって、同じ穴のむじな連中の間にこそ自らの快適な居場所を見つけるのであろう。このような団体というのは、その信条ゆえに、時として政治的な援助を得ることは確かにある。が、科学畑からの援助ということになると、これはまったく望むべくもないのである。
しかし、お互いを責め合うことによっては、我々は大した進歩を遂げられずにきた。幸いにして本ジャーナルの目的こそは、我々の学問における哲学(「カイロプラクティック哲学」ではなく)のあり方についての批判的かつ学術的な理論構築である。物理学哲学、天文学哲学、化学哲学、そんなものが存在しないように、カイロプラクティック哲学などというものも存在しない。物理学のような科学を構築するのは地道な作業で、カイロプラクティックについてもそれは同様である。それは非常に厳密かつ詳細な研究を要し、また不正確な、立証不能な、はやまった主張を回避するための訓練を要する。そしてそれは、大声をはりあげて我流の万能薬を売りつける、見せ物の客引きのような連中へのアンチテーゼを要するものなのである。
実に喜ばしいことには「こんな状況はもう十分だ」と声を一つにして言うことのできる団体が(実質的には1967年より)加速度的に力をつけてきている。この団体は新しい論文を支持し、研究し、そこから引用し、過去の霧を否定し、正確な用語の使用を要求することができる。「カイロプラクティック哲学」という言葉の誤用もいつかは消え、「カイロプラクティック科学」の哲学がそれに置き換わるであろう。考えるだけで刺激的なことだ。
業界内の多くのセミナーは、過去の参加者たちの収入の高さを宣伝することを「売り」にするというような反職業倫理的な行為に従事し、また他のセミナーは誤った「哲学」を「売り」続けるが、それらの行為とて自由競争の原理の上に守られた権利ではある。しかし、我々の患者たちのためにだけでなく、市民一般の利益のためにこそ、こういった動きが減り、そしていつかなくなることを祈ろう。
カイロプラクティックの歴史の最初の75年の間、業界内における「哲学的概念」は根の深い存在であり、理想家、策士、夢想家、そういった多くの人々が初期の「哲学的概念」を、進歩し続ける科学の要請と何とか符丁が合うよう順応させようと試みてきた。が、真の哲学的概念は科学的実験、観察、理論、理屈といったものから引き出されるデータの総体と食い違ってはならないものであるというコンセンサスが、過去20年の間にようやく固まりつつある。
付け加えていえば、カイロプラクターとカイロプラクティックがヘルスケアの分野でいかなる貢献をできるかについて、その結果もしくは限界を正確に予言できるだけのデータの蓄積を我々がもっていたなら、今日の業界の分裂状態も、ほとんど確信をもっていえるが、消失することであろう。
ちょっとでいいから想像して欲しい。どの呼吸器疾患がどの機械的刺激に反応するか、あるいはそれは脊椎マニピュレーションにはいかに巧く行われようともまったく反応しないものであるのか、そういった事柄が、注意深く設計された科学的に正当な研究によって完全に解明されるという事態を・・・。そうなってしまえば、今日のように「サブラクセーションの矯正」と「疾患の治療」とが二分法的に違った意味あいをもつような状態は――少なくとも呼吸器疾患の分野では――存在しなくなるに違いない。
簡単にいってしまえば、「カイロプラクティック哲学」の不適当性は正に、カイロプラクティックにおける「誰が」「何を」「何処で」「如何に」そして「何故」を説明すべき有効な科学的データの欠乏の度合に正比例する。
18世紀の宗教的哲人であったチャールズ・ニスベット(Charles Nisbet)は「明かりをさえぎる窓をうがち、虚無にしか通じぬ路を開き」「現代の懐疑主義哲学は物事の立証のみを求め、真理をまったく信じようとしない」と述べた。
カイロプラクティックの「哲人」たちのどれだけ多くが「明かりをさえぎる窓をうが」ってこの職業を駄目にすることだろう、「物事の立証のみを求め・・・・・・真実」を創造することであろう。(訳注1)
我々が経験したおそらく最大の苦難は、アメリカ医師会とそのメンバーによる謀略であったろう。カイロプラクティックという職業を根絶しようというこの動きは、すべてのカイロプラクターにとって生き残りのための最大関心事であった。世の中の他の部分から孤立してもー向に気にしようとしない、いわばスラム街的根性が我々にはあり、その性向ゆえに、もし「カイロプラクティック哲学」の壁の一端が崩れるようなことがあれば、そのまま壁そのものが崩れ落ちてしまうのはないかという恐怖が業界内に広まった。壁を崩そうとしている方の側は、なにも我々が社会的に受け入れられるのを助けてくれようとしているわけではなく、むしろ我々を抹殺しようと企てていたのだから。
さて、まず我々の患者たちのサポートがあり、医師会の卑劣かつ不法な行為が暴露され、公判の争点は、彼らの独断と偏見であってきたものを合理的な手段で立証できるか否かという点に移った。彼らは渋々、立証可能な事実が単なる思惑に優先すると認めた。この争点の移行が実証的データ獲得のために我々が運動を開始する契機となり、さらに今度は、データの蓄積によって勇気づけられたカイロプラクティック界が、ヘルスケアにおけるその貢献の可能性を正当化し、またその結果を予測し得るだけのデータを要望、いやむしろ要求し始めるという結果になった。フレドリック・マックス・ミューラー(Friedrich Max Muller)は100年以上も前に「哲学は知識についての知識であるといわれてきたが、それは無知についての知識、あるいはカントの言葉を借りれば知識の限界についての知識、と表現した方がより真実に近いかもしれない」と述べたが、業界内には今やこの意見に賛同する優秀な連中すら(喜ばしいことにますます増える傾向にある)育ってきている。
過去においては確かに我々の知識は浅薄なものであった。しかしそれを率直に認めた上でいえば、「広い視点」「上から下まで、内も外も」などという軽々しい響きの我々の商売上の隠語も、医学界を含めて誰も過去においてはまったく解明し得なかった現象を説明する上での我々の差しあたっての橋渡し、もしくは偽装であったと理解することができる。
このようなカイロプラクティックの目ざましい研究活動の進展と呼応して、医学界がこの方面に関しての自らの知識には途方もない遅れがあると自覚し始めたのは、興味深くまた我々にとって名誉なことである。
これまで非現実的な理論の上に安住してきた人々に向けて一言。生物学、化学、物理学、心理学などの履修を通して科学というものを初めて理解した学部生時代を思い出して欲しい。それ以来、業界内の反動的傾向に染まってあなたがたは退行していってしまったのだが、だからといって今から初期の理解にたち戻れないという理由は何もないのだ。科学的方法とは非常に厳密なもので、その過程は優れた頭脳による試行錯誤の繰り返しである。こんなことは方法論関係の文庫本にすら書いてあることで、そういった本を読んでみれば、カイロプラクティック(これは科学である)哲学などという言葉は、互いに矛盾する意味の語を並べて、本来の並置法にない効果をねらう矛盾語法のようなものであることが分かるだろう。
カイロプラクティックの科学の哲学とは、カイロプラクティックの科学の論証と同義である。D.D.パーマー(Palmer)がいみじくも主張したように、科学は常に進歩(すなわち変化)しているのであり、よってカイロプラクティックの「哲学」もそれにともなって進歩(変化)する。この二つはお互いに手を取り合って歩むものであるばかりでなく、本質的には同一のものなのだ。よって、カイロプラクティックを「原理」とみなすことには(大切な点であるが)容認の余地がない。それは、骨学、神経学、生理学などと同様、さまざまな原理を統合したその総体である。
カイロプラクティックの用語として原理という言葉が使われる場合があるとすれば、それはカイロプラクティックにおける人体の恒常性の仮説に言及する場合のみに限って、恒常性の原理、というように使用されるべきものである。恒常性の原理は科学界において最も広く受け入れられている人体生理学的原理であり、それは現象として観察されるのみならず、多くの有効な実験結果によって支持されている。その恒常性も最初は仮説として出発しなくてはならなかったのであり、数えきれないほど多くの実験結果により支持されることによって理論として成立し、ついにはより詳細な実験によってその理論の正当性が確認されて原理となった。恒常性とはイネイト・インテリジェンスといわれるものと同義であろうか? そうかもしれないし、そうでないかもしれない。そのような疑問を我々が実験室に持ち込もうとしたのは、いったいいつのことであったろうか?
哲学は(常にとはいわないまでも)非常に頻々、反知性派の者たちの逃げ場所であってきた。今やこの破壊的な要素を、磁気療法やら伝説の竜やらyellow brick road(訳注2)などと一緒に、形而上の世界に送り返す段階に我々はきている。科学(医学ではなく科学。もちろん医学の世界にも多くの優れた科学者は存在するが)は既にカイロプラクティックの上に明るい光を投げかけつつあり、その学術研究の光は、誤った哲学によって作り出されてきた無知の影を次第に押し戻しつつある。これこそ恵みの光である。
(訳注) 1.上の二つの段落の論理はやや混乱している可能性があると思われるが、そのまま訳出した。
2.訳者が調べた範囲で、意味をとることができなかった。