ココロの親分
心の問題についての議論が喧(かまびす)しい。どこで? 筆者の頭の中で、である。というように、いつもながらの問答無用さで今回も始まってしまった。
うすうす感づいておられる読者もあろうかと思うが、筆者は恥かしながら尾崎豊のファンである(知ったことじゃないですか、そんなこと)。大槻ケンヂはもっとファンであるが(少し日本語おかしいですか)。
「時の流れに心は変わってしまうから」(『僕が僕であるために』)
「心のハーモニー奏でよう」(『街の風景』)
「心のひとつも分かり合えない大人たち」(『十五の夜』)
などというように尾崎君は「心」を、金や物や名声やなどといった、いわゆる「サラリーマンのオヤジ」っぽいもの一般の対極にある存在として、しかしきわめてアバウトにとらえ、表現する。「真心(まごころ)」や「優しさ」や「思いやり」や「良心」や「夢」や「純粋さ」などの総称が、彼の「心」である。そしてそのシンプルさの故に「十代のカリスマ」たり得たのが彼、でしょう、やっぱり。そう深く物に悩むということをしないからね、若い連中は。
かたや、わたくし齢36にして何かと悩ませていただいております。
ほとんどすべての腰痛症は心からくる、と言い張る外科医の先生がアメリカにいる。この言い分もまたシンプルなだけに訴える力が強い。おかげで、あちらでは彼の本がこの夏のベストセラーになってしまった。ニューヨーク医科大学教授、J.E.サーノのTMS(緊張性筋膜症候群)理論(*1)だが、腰痛は心からくるとして、ではその治療はどうするのかということになると、それは、
「この本を読めば治ります」あるいは、
「私の話を聞けば治ります」とオチるのだから、そりゃあ本は売れるでしょう。セミナーも満員御礼の垂れ幕が下がっていることは請け合いだ。サーノ博士の問答無用さも、なかなかであろう。
で、筆者が何に悩むのかといえば、そんな、人を100人集めてワワーっと話しをすると100人分の腰痛がドドーっと治ってしまうのであれば、それ、いただきたい、ウチでやってみたい、幸い筆者は割にしゃべりが好きで得意、新しいビジネスチャンス到来か、うまくすると東京ドームに6万人集めて“腰痛退散大法要”でも催し、積年の懸案であった教祖デビュー、宗教法人化もありか!? などと、煩悩の炎に悩むのである。
単純系VS複雑系
心をやっちゃってる患者さんは多い、とは思う。サーノは(腰痛に関しては)ほとんど全部、心をやっちゃってるんだよ、と言うわけだ。しかし地球は広い、心も広い。心といってもいろいろな側面があるのだ。そんないろいろの中でもサーノが強調するのが「怒り」である。いわく、怒りなどという社会的に不適切な感情を自分が沸きたせているという不快な事実に直面しなくてもすむように、体は交感神経系を介して腰部の軟部組織への血流を低下させることによってワザと腰痛を発生させ、こっちの方に気を引くのだ、と。
しかし「怒り」って言われてもなあ。それは本能で、持っていない人はいないのだから、サーノの言うことを読んだり開いたりして、なんとなく思い当たらない人はいないわけだ。そのせいか、サーノの本『ヒーリング・バックペイン』(邦訳・春秋社)に寄せられる読者からの反響というのも、「効きました」「治りました」にとどまらず「命の恩人です!」的なトーンの、一種マニアックな響をもったものが多い。
古今東西、多くの人をまとめて、しかも物凄く感動させてしまう思想といったら一軸性のストレートなものと相場が決まっている。マルクス(全部資本家が悪い)、ヒトラー(全部ユダヤ人が悪い)、パーマー(全部サブラクセーションが悪い)、尾崎(全部大人が悪い)と、クーン、サーノか、心惹かれるけどなあ、でもなあ、うーん。と、悩むわけである、これも心で。
これら「一刀両断・問答無用」系=単純系人たちがウケがよいのに対して、ああでもない、こうでもない、あーかもしれない、こーかもしれない、とやってしまう「紆余曲折・何かご質問は?」系=複雑系の人たちはウケにくい。
慢性疼痛の「利得」理論
筆者の目の前に、1冊のいい本がある。『脊柱のリハビリテーション――臨床家のためのマニュアル』“Rehabilitation of the Spine−a Practitioner’s Manual”というもので、アメリカのカイロプラクターと医師が共同で執筆した、最新式の科学ベースのカイロプラクティック業務の行い方についての本である。最終章には「リハビリテーショシの社会心理学的的および社政治学的側面」“psychosocial and sociopolitical aspects of rehabilitation”という一章が設けられていて、題名どおりの方面のことが様々に書いてある。これも本書の包括的な治療アプローチのあり方を示すもので、いいですねえ。これ本当にいい本なんですよ。
で、同章中、カリフォルア・パシフィック医療センターのG.E.ベッカーが言う(*2)。慢性疼痛症の多くは、やはり、精神的な原因によって引き起こされている。そうった患者は、無意識のうちに、痛みを発することで何らかの「利得」を得ようとし、実際得ているわけで、これには第一、第二、第三利得と三種ある。第一利得とは、人に親切にしてもらったりして味わえる、いわゆる「病人気分」。第二利得とは、自分が調子が悪い間は、例えば家事を誰か代わってもらえるなどという、現実的な得。そして第三利得とは、自分を取り巻く他人のための得。つまり例えば、交通事故の後遺症で痛みが続く間、病院通いをするとして、それが続けば続くだけ自分の弁護士を儲けさせてあげられる(アメリカ的ですな)などというもの。
このように、無意識のうちに痛みを発して「利得」を得ようとする性癖というものがあって、これを体性化素質somatization diathesisと呼ぶ。どういう人たちが体性素質をもちやすいかというと、幼少期に無視されて、愛情を得られずに、あるいは虐待されて育った者、アルコール中毒者、手術を受けて失敗した者など、であるという。で、そういう精神的にやっちゃってる患者をどのように見分けるかというと、以下の諸ポイントに合致すればするだけ要注意、ということになる。
ココロをやっちゃってる患者さんの見分け方
〔問診〕
●外傷の履歴についてあいまいで一貫性のない点が多く、外傷の現場も目撃されていないこと。
●症状が体のある一部から始まり、次第に別の部位に広がり、しばしば全身に及んでいること。
●「地獄のような」「張り裂けるような」「つぶされるような」「残酷な」「ひどい」「悪い」「突き抜けるような」「たたきつけられるような」「殴られるような」「怖い」「刺されるような」「泣きたくなるような」「壊れちゃうんじゃないかと」などという高度に感情的な表現を使こと。
●「まったく動けない」「我慢できない」「脚がダメになった」「何も感じない」「まったく何もできない」などという明らかに誇張され表現を使うこと。
●「10分以上座れない」と訴える患者が、座ったままで1時間ほども痛みについて語る、などといった明らかな矛盾。
●生涯にわるような症状の履歴々長々と語る。
●顕著な受動性、無気力な動作や表情、異常な体重増などの顕著な身体的不調整。
●「もうこんな状態に慣れてしまいました」といったような諦めの言動。
●アスピリンなどの鎮痛剤によってのみ抑えることのできる痛み。鎮痛剤の服用量は漸次増加している。
〔社会心理学的側面〕
●仕事、人間関係、家計などについての自分の責任についてしばしば言及する。
●内向的
●問診中に泣く。
●精神的な問題が肉体的な問題を引き起こしていることを強硬に否定する。逆に肉体的な問題が精神的な問題を引き起こしていることについては否定しない。
●痛みからくる障害によって引き起こされ得る将来に対する不安をしばしば口にする。
〔気分的側面〕
●自分の仕事に対する不満や苛立ち、司や医師に対する怒り。これらは、しばしば、自分の親代わりになる事物・人物への無意識的な怒りの表現である。
●標準的な治療に対して症状悪化を訴えること。
●医師の方が次第に患者に対して怒りの感情を抱き始めること。「感情の逆移入」。
●鎮痛剤、アルコール、食物の過剰摂取。体重増をもたらすかもしれない。
〔理学検査〕
●明らかに不必要な杖をつくこと、奇妙な跛行や不自然な姿勢などの演技的な所見。
●半身もしくは手袋状のしびれなどの、解剖学的に不可解な感覚異常。
●筋萎縮を伴わない筋の無力などの、解剖学的に不可解な運動異常。
●視診による可動性と検査による可動性との顕著な違い。
●SRLテストの結果が座位と背臥位とで大きく違う。
●頸椎圧迫テストの異常な検査結果(腰痛や下肢の症状が引き起こされる、など)。
●軽い触診や打診に対する誇張された痛みの反応。
と、ざっとこんなものである。心が体を痛めるという現象にさまざまなあり様があって、いろいろと目を光らせて考え合わせなくてはならないよ、ということだ。
ココロをやっちゃってる患者さんの治療法
で、(お待たせしました)その治療はどうするかというと、原因がさまざきである分だけ対処の仕方もさまざま、ということになる。具体的には、
●針灸:リラクゼーションによい。
●手技療法による関節や筋肉の操作:一時的にせよ、痛みを緩和して気分を楽にしてくれる。
●行動療法behavioral therapy:精神的な障害を行動面から矯正していく訓練。具体的には姿勢や動作の矯正法。要は「背筋を伸ばして座ると気分までシャンとしてくる」というやつだ。
●認識療法cognitive therapy:鬱の心理状態がいかなるものかを認識することによって、それから脱しようとするカンセリング。いちばん心理療法らしい療法。
●バイオフィードバック:筋電図を使って、今どこに力が入っているかを患者がモニターを見ながら認識し、不必要な力を抜く練習をする。
●催眠療法:「心が優しーくなってくると、腰の痛みも氷が溶けるようにラクーになってきます。ハイ、サン、ニーッイ、イーッチ、ほーらほらほらほら――」。
●家族療法:患者の家族が、患者が何について不満、不安、怒り、その他を持っているかにいて話し合い、その結果に沿って患者をサポートしてゆく。
●薬学的方法:精神科学の知見を応用し、様々な薬で精神的症状を改善する。具体的は抗鬱剤、筋弛緩剤など。
●食事療法:タバコやアルコールの制限。食事制限による体重滅。
●ストレッチの処方:患者にストレッチングをやってもらう。
読み通せましたか?
などということで、これらを状況に合わせて組み合わせてゆくのだ。フーッ。当然、以上の項目のそれぞれについて、より詳細な理論がくっついてくるのだ。ハアーッ。これぞ複雑系、何事もつきつめてゆくとこうなるもののようである。しかしなあ、アメリカの大病院で精神科や整形外科やカイロプラクティックの学際的チームが治療をやるという設定ならともかく、ここまで言われちゃうとちょっと使にくい、一介の「医療類似行為業類似業者」としては。
ホーソン効果
と思いながら読み進めてゆくと、その次にはW.H.カーカルディウィリスの一文が(*3)
。おお、一昨年カイロプラクティック東京世界大会で筆者がインタビューしたD.キャシデイ博士の師匠か。が、もうここにくるまで疲れてしまって、読むでもなく小見出しだけ拾っでいると、「宗教と治癒」「シンボルと比喩」などというのが見える。あらまたこんどはグルリと方向を転換しちゃって、どういう趣向なの。と、今度はもう少し目を凝らして、近頃とんとご無沙汰で慣れない英文に取り組むと、「ホーソン効果」という項が目に入る。
アメリカの西部、ホーソンという町にあるウエスタン・エレクトリック・プラントという会社の経営陣が、とにかく工場の生産性を高めようと決めた。で、大枚をはたいて社会学者の一群を一時雇用し、工場のあちこちをチェックさせたり、従業員の話を聞いてもらったりして、改善点を指摘してもらうことにした。まあ手始めに、てなことで彼らは、工場のいくつかの部分で照明をより明るくすることを提案し、会社「お安い御用」とそれに従った。と、とたんに工場の生産性が飛躍的に上がったのだ。いやー、よかった、よかった、これからもこういうことドンドンやるからね、とその社会学者たちの一群は言い残して工場を去り、で何をしたかというと今度はその照明を徐々に元の明るさまで落としていってみたのだ。
学者という連中は信用のならぬものである、というのがこの話の教訓、ではもちろんなくて、経営陣の驚いたことには、照明を元にしても工場の生産性は上がり続けたのである。
従業員たちは照明の明るさではなく、経営者や社会学者たちが従業員の福祉に心をくだいているとう事実を(明るくなった照明によって、まさに)目の当たりにし、これに影響を受けたのである。これは一種のプラシーボ効果であり、科学者が実験を行う際には可能な限り排除すべきものである。が、よく考えてみるとファミリー・メディシン(日本で言えば行きつけの内科・小児科)なんでは、この「ホーソン効果」は排除すべきものどころか、むしろ治療プログラムの主軸のひとつで、それなしにはやってゆけないものでもあると、これがカーカルディウィリスの締めである。
憑(つ)かれたな
筆者はポーンと膝を打った。そして、ちょっと違うかもしれないが、大槻ケンヂの『憑かれたな』という短篇小説を思い出してしまったのである(*4)。
悪魔にとり憑かれた『エクソシスト』のヒロイン、リーガンそのものの態で狂いまくる少女がいる。母親は精神科で「ヒステリーとか多重人格症とか言われて入院をすすめられ」るが、娘には「何かがとり憑いたとしか思ない」。彼女は、「医者も宗教家も治せなかった憑きもの祓(はら)います」とのチラシを頼りに「オール・ジャンル・エクソシスト、滝田一郎」に悪魔敵いを依頼する。
「結局、医者は一時だけおとなしくする薬を飲ませるだけで、また薬が切れれば暴れだします。いろんな霊能力者も訪ねたんですけど、インチキばかりでした」と言う母親の前に現れた滝田は、
「私には、霊力などございません」と言い放つ。
「は? ・・・でも、さっき・・・何かが憑いたようになって」
「ああ、あれは芝居です」
滝田は元売れない役者だったのだ。
「演じたんですよ。霊能力を持つ男の役をね」
ドーン! 彼によれば、「憑依現象とは目に見えない邪悪なものに肉体を乗っ取られたと思い込む妄想に過ぎ」ず、「それは抑圧に対する本能の逃避行為ある。つまり、「ある欲望があるとして、それが道徳と反する場合、人は理性で押さえ」る、が、欲望が「理性の何倍も勝っていたら」人はそれ耐えきれなくなり、「“道徳とまったく反する目に見えない力に自分は支配された。取り憑かれた”と思い込むことによって、逆に“もうどんなことをしたってそれは魔物のせいなのだ”」という言い訳を得て暴走してしまう。これが憑依現象である、と。
で、その治療は(お待たせしました)ということになると、その要諦は相手の妄想に「合わせる」ことにある、という。「真のエクソシストは、憑依妄想者の妄想に対応し、見合ったエクソシズムのイメージを与え」るものであり、「悪魔に憑かれたものには司祭、ヤマタノオロチなら宮司、宇宙人に憑かれたというのならNASA職員の姿で」臨むのだ、ということで滝田は、スーツケースに詰まったエクソシズム用グッズ、すなわちありとあらゆる衣装と小道具を得意げに親に見せる。
「単一の魔物にしか対応のできない自称霊能者たちにこれは無理です。お客様のニ−ズに応えていくつものエクソシズムが施せるのは、私のようにどんな魔物に対しても見合ったエクソシストを演じきれる『俳優』だけなのです」(傍点筆者)
ホーソン工場の社会学者たちは、従業とのインタビューから、彼らが経営陣から大切に扱われていないと思っていることを嗅ぎ取ったのであろうか? だからこそ、いったん上げた照明を落としてみるなどという実験をやってみたのか?
お客様のニーズが様々である限り、それへの対応も様々であろう。が、「あなたの仕事は?」と問われて「お客様のニーズに応えることです」と一言で言い切れるという意味では、その仕事内容はシンプルなのだ。
これって単純系? それとも複雑系?
(*1) Sarno J.E: Healing Back Pain,Warner Books,New York,1991.
(*2) Becker Psychosocial Factors in Chronic Pain. In: Liebenson C, editor. Rehabilitation of the Spine: a practitioner's manual. Baltimore: Williams&Wilkins; 1996. p391-404.
(*3) Kirkaldy-Willis, W.H. Patient/Doctor Interaction. In: Liebenson C, editor. Rehabilitation of the Spine: a practitioner's manual. Baltimore: Williams&Wilkins; 1996. p40-410
(*4) 大槻ケンヂ:憑かれたな,角川文庫『くるぐる使い』収録,1998